みんなの投稿
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色部光長(いろべみつなが)・色部与三郎(いろべよさぶろう・長町...
生年月日不詳~寛永17年(1640)6月2日。 龍松丸、与三郎綱長、修理亮、長門守。 文禄元年(1592)9月10日、平林城(新潟県神林村葛籠山)主色部長真(長実・いろべながざね)が死...
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菊姫(きくひめ)の死(米沢移封その9)【直江兼続・天地人関係】
慶長9年(1604)2月19日、菊姫は伏見の上杉邸で没しました。『年譜』には、病が伝えられると信清(腹違いの弟)が上洛して看護に当った、と記されていますが、真相はそうではありませんでした...
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藤堂高虎(とうどうたかとら・一岡裕人)【直江兼続・天地人関係】
弘治2年(1556)~寛永7年(1630)。 伊勢津藩主。 近江国に生まれます。 浅井長政、織田信澄に仕えたあと、羽柴(豊臣)秀長の家臣となり、賤ヶ岳の戦いをはじめとして数々の軍...
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上杉定勝・玉丸(うえすぎさだかつ・たままる)・米沢藩上杉家2代...
慶長9年(1604)5月5日~正保2年(1645)9月10日。 米沢藩2代藩主。 従四位下弾正大弼(だんじょうだいひつ)。 米沢で生まれます。 父は上杉景勝。 幼名玉丸(たままる)...
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桂岩院(けいがんいん)・四辻大納言公遠息女・娘(よつじだいなご...
生年月日不詳~慶長9年(1604)8月17日。 上杉景勝の側室。 名前・生誕年月日・側室となった時期など、一切不明。 慶長9年(1604)5月5日、米沢城で玉丸(米沢2代藩主上杉定勝)...
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龍馬伝登場人物一覧【龍馬伝・坂本龍馬関係】
★ 坂本龍馬(福山雅治・濱田龍臣) ★ 平井加尾(広末涼子・八木優希) ★ 千葉佐那(貫地谷しほり) ★ 楢崎龍(真木よう子) ★ 岩...
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上杉景勝
私が3歳から育った町伏見には、歴史的な地名が沢山あります。 これもその一つ。 天地人で妻夫木聡君が演じている直江兼続の主君、上杉景勝にゆかりの地名、 “景勝町”にある橋“景勝橋”で...
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上杉景勝・直江兼続大坂冬の陣出陣(大坂の陣その6)【天地人・直...
慶長19年(1614)10月2日、米沢城を発った『上杉景勝』は、一路江戸へ向かっていました。 駿府の『徳川家康』が、大坂城攻撃の軍令を諸大名に下したのは、その前日の10月1日です。だから『...
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蛇土手(へびどて)・蛇堤(へびつつみ)・米沢【直江兼続関係史跡...
直江兼続の指揮した治水事業の1つで、最上川(松川)の左岸、南原石垣町の東裏から芳泉町を経て割出町まで至る長さ約8キロメートルの堤防。蛇堤(へびつつみ)とも称されます。上流部には堤防...
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猿尾堰(さるおぜき)・切腹堰・米沢【直江兼続関係史跡・遺跡・碑...
直江兼続の指揮で造られた堰の1つで、最上川(松川)上流部李山(すももやま)から堰上げし、南原諸町の用水となり掘立川(ほったてがわ)に注ぎました。有事には堀の代用となる掘立川の重要...
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帯刀堰(たいとうぜき)・西川堰・大頭堰・米沢【直江兼続関係史跡...
直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰で、米沢城下西側の武家屋敷の用水をまかないました。 米沢城下の西を流れる鬼面川(おものがわ・西川)から堰上げし、城下西側を潤し...
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直江石堤(なおえせきてい)・谷地河原堤防(やちがわらていぼう)...
米沢をくまなく潤して日本海に注ぐ最上川は上杉領と蒲生領の国境吾妻山にその源を発します。城下の東を流れる最上川の支流は松川と呼ばれますが、これがひどい暴れ川で、大雨のたびに南原の川...
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本多政重・直江勝吉(ほんだまさしげ・なおえかつよし・黄川田将也...
兼続の婿養子となった本多一族 生没年月日 天正8年(1580)~正保4年(1647)6月3日 享年 68 別名 倉橋長五郎、正木佐...
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上杉謙信の遺体・亡骸(なきがら)【天地人・直江兼続関係】
上杉謙信は天正6年(1578)3月13日、春日山城で急逝しますが、遺骸は荼毘にも付されず埋葬もされませんでした。記録によれば遺体に漆を塗り、甲冑を着せ、大きな甕に入れて春日山城の一隅に安...
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御入水堰(おいりみずぜき)・米沢【直江兼続関係史跡・遺跡・碑・...
直江兼続が指揮した米沢城下造営の一環で整備された堰で、米沢城内および城下東側の生活用水をまかないました。 最上川(松川)の上流にあたる芳泉町上の裏で堰上げし、笹野街道の天神清水...
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樋口惣右衛門兼豊(ひぐちそうえもんかねとよ・高嶋政伸)【直江兼...
生年月日未詳~慶長7年(1602)9月12日。 惣右衛門尉。 上杉景勝の家老直江兼続の父。 次男与七(小国実頼→大国実頼)、三男与八(樋口秀兼)、長女(須田満胤室)、次女(色部光...
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米沢移封後の上杉家と直江兼続。年表【天地人・直江兼続関係】
1.上杉景勝知行削減される:慶長6年(1601)8月 2.本多正信の支援:慶長6年(1601)8月~ 3.上杉家会津若松城から米沢へ引越し:慶長6年(1601)9月~ 4.城代配置状況、家中を身分別4...
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本多正信(ほんだまさのぶ・松山政路)【直江兼続・天地人関係】
「天下の権」を握った家康の謀臣 生没年月日 天文7年(1538)~元和2年(1616)6月7日 享年 79 通称 弥八郎 ...
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直江兼続、米沢の山中で密かに鉄砲製造(米沢移封その7)【天地人...
米沢の城下町拡張工事が行われていた頃の天下の情勢はどう推移していたのでしょうか?『徳川家康』は慶長8年(1603)、江戸に幕府を開いたが、『豊臣秀頼』を擁する大坂方の勢力は依然として...
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直江兼続、上杉景勝居城米沢城に三の丸を新設する(米沢移封その13...
三の丸の拡張工事は慶長13年(1608)5月から開始されました。移転以来すでに7年が過ぎていました。前述のように、それまでの米沢城には三の丸がなく、そこは町人の住む町でした。会津から移っ...
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直江兼続の米沢城下町づくりと治水工事・河川改修事業(米沢移封そ...
米沢をくまなく潤して日本海に注ぐ最上川は上杉領と蒲生領の国境吾妻山にその源を発します。城下の東を流れる最上川の支流は松川と呼ばれますが、これがひどい暴れ川で、大雨のたびに南原の川...
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直江兼続、米沢に屯田集落を設ける(米沢移封その8)【天地人・直...
慶長7年(1602)2月からは、下級家臣たちが険しい綱木峠を越えて続々と引き移ってきました。『直江兼続』は、これらのうち千数百騎を城外の荒蕪地の東原・南原に配置し、最下級の足軽でも間口...
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上杉景勝・上杉家会津若松城から米沢へ引越し(米沢移封その3)【...
関ヶ原の合戦の結果、米沢への転封を命じられた後の『直江兼続』の処置は素早いものでした。減封が決まるや腹心の伊達・信夫郡奉行『平林蔵人』らを会津へ差し下し、米沢移転に際しての下知を...
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龍光院清融(りゅうこういんせいゆう)【直江兼続・天地人関係】
天正2年(1574)~寛永8年(1631)。 高野山龍光院第36世。 法印権大僧都(ごんのだいぞうず)。 お船の子。 清融は『高野春秋』という記録には「直江山城守の庶子」と見え、...
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養子・本多政重の米沢退転(米沢移封その15)【天地人・直江兼続関...
直江兼続と本多正信との友好関係は続きます。慶長15年(1610)12月、将軍・徳川秀忠が上杉家江戸屋敷・桜田邸を訪問します。将軍の御成(おなり)です。 その事前準備は本多正信が指示し、...
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直江兼続と本多正信の養子縁組を巡る奇妙な出来事、於松と直江勝吉...
前ページ:直江兼続と本多正信の養子縁組、於松と本多政重 上杉景勝の嫡子誕生の4ヶ月後、慶長9年(1604)閏8月、本多政重と於松との縁組が執り行われます。 以降政重は直江大和守勝吉...
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直江兼続と本多正信の養子縁組、於松と本多政重(米沢移封その11)...
上杉景勝の嫡子誕生と重なる時期に、45歳の直江兼続が養子を迎える話が進んでいました。本多正信の次男・政重と、兼続の長女・於松との縁組であり、婿入りした政重は直江家を相続します。 ...
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本多正信の支援(米沢移封その2)【天地人・直江兼続関係】
関ヶ原の合戦以降の主な出来事を、年表で整理しておきましょう。 慶長8年(1603)2月:徳川家康が江戸に幕府を開設 慶長8年(1603)7月:徳川秀忠の娘・千姫が、豊臣秀頼に嫁ぐ 慶長10年...
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上杉景勝と側室四辻氏に子供・長男(玉丸・上杉定勝)誕生(米沢移...
米沢藩初代藩主・上杉景勝に男子が誕生したのは、慶長9年(1604)5月5日。50歳の景勝にとって、初子です。 「人生50年」といわれた時代ですから、極めて遅い。戦国大名は男色を好む者が多...
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前田慶次の再帰参-主人は上杉景勝のみ(米沢移封その5)【天地人・...
10月15日、伏見を出発した景勝は、28日に米沢へ着きます。直江兼続も同行したのでしょう。 その後を追うように、前田慶次も24日に米沢へと旅立ちます。 上杉征伐後、暇を取った前田慶次...
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米沢移封後の城代配置、上杉家中を身分別に4組に編成(米沢移封そ...
米沢移封後も、領国防衛のため、各郡の城に城代を置きます。 本拠地、出羽長井郡を直江兼続は腹心で固めています。 ●陸奥伊達郡:梁川城(須田長義) ●陸奥信夫郡:福島城(本庄繁長)...
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前田慶次「5百石もいただければ結構でござる」(上杉征伐・関ヶ原...
関ヶ原の合戦の後、120万石の所領を4分の1の30万石に減封された上杉では、景勝がそのなかから直江兼続に6万石を与えました。しかし、家中の窮状は深刻です。直江兼続はそのうち5万石を返上し...
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石田三成の最後-死罪・死刑・斬首(上杉征伐・関ヶ原の合戦その21...
関ヶ原の合戦のあと、石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は死罪。宇喜田秀家は後日捕らえられて八丈島へ遠島に処せられました。 総大将とされた毛利輝元は、徳川家康からの「領国を安堵する」...
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関ヶ原の合戦後上杉景勝大幅減封・米沢30万石-劣勢を承知で「義」...
慶長6年(1601)正月、徳川家康は首脳部を集めて意見を質しました。このとき結城秀康は、上杉景勝に謀反の企てがあったのかどうかは不明であること、上杉家は代々武功の名門であること、太閤...
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直江兼続、最も重要な引き上げ最後尾部隊の大将に前田慶次を任じる...
関ヶ原での西軍の敗戦を知って、長谷堂城の最上・伊達軍の前から引き上げるに当たって、直江兼続はその最後尾部隊の大将に前田慶次を任じました。前田慶次その日のいでたちは黒具足に猩々緋の...
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最上義光(もがみよしあき)【直江兼続・天地人関係】
策謀&戦闘! 出羽きっての猛将 生没年月日 天文15年(1546)~慶長19年(1614)1月18日 享年 69 幼名 白寿 通称 次...
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関ヶ原の合戦の結果を知った直江兼続は長谷堂城から引き上げ(上杉...
長谷堂城の攻防に鎬を削っているところへ、関ヶ原で東軍が圧倒的な勝利を勝ち取ったという報せが届きました。時が経過すれば、徳川家康の軍勢は再びここへ戻ってくるかもしれません。 上杉...
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上杉軍・直江兼続の最上義光攻め(上杉征伐・関ヶ原の合戦その18)...
徳川家康が小山から撤退したあと、上杉景勝の矛先は北東へ向けられました。これに直面するのは最上です。 上杉景勝の領地は信夫・伊達・置賜と、そこから離れた酒田・庄内、そして佐渡です...
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関ヶ原の合戦。直江兼続・石田三成共謀否定説(上杉征伐・関ヶ原の...
上方で多数派工作に邁進する石田三成は、真田昌幸に数通の書状を送っています。 ●7月30日付:三成は昌幸に事前連絡しなかったことを詫び、「会津への使者を、沼田(群馬県)越えで案内して...
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西笑承兌(せいしょうじょうたい・さいしょうじょうたい)【直江兼...
天文17年(1548)~慶長12年(1607)。 臨済宗夢窓派の僧。 出自については不詳。 出家の後、相国寺の仁如集堯(にんじょしゅうぎょう)に詩文を学びます。 天正12年(1584)、...
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上方は烏合の衆。上杉は謙信以来の強敵-殿軍をまかされた結城秀康...
撤退していく東軍には、大きな危機感がありました。後方から上杉軍に追撃される恐れは極めて大きい。 その最後尾を務める殿軍(しんがり)の部隊は、逃げ腰になっている部下をはげまし、敵...
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撤退する敵軍(徳川家康軍・東軍)を上杉景勝が追撃しなかった理由...
激突寸前の最前線から、突然敵軍が撤退を開始しました。上杉軍にとって、まさに絶好の機会です。 敵は戦闘意欲を喪失して、少しでも早く安全な地域へ脱出しようと浮き足立っています。これ...
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石田三成挙兵。小山の徳川家康、上杉景勝征伐か反転か?(上杉征伐...
石田三成の呼びかけに応じた関西の諸将は、徳川家康が留守の間に、いくつかの敵方の城に攻めかかり、次々に攻略しました。 鳥居元忠が立てこもった伏見城をはじめ、田辺城、安濃津城(あの...
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革籠原(皮籠原)の合戦。上杉景勝、徳川家康に睨み勝ち!・・・幻...
徳川家康は会津へ攻め入る軍勢を次のように配置していました。 ●白河口:徳川家康・徳川秀忠及び上方の諸将 ●仙道口:佐竹義宣 ●信夫口:伊達政宗 ●米沢口:最上義光と仙北の諸将 ...
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『内府ちかひ(違い)の条々』の内容(上杉征伐・関ヶ原の合戦その...
『内府ちかひ(違い)の条々』とは、関ヶ原の合戦の前に西軍が公表した、徳川家康の悪事を13ヵ条にまとめた告発文です。 その中には、次のような項目が挙げられています。 一、五大老の...
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上杉景勝討つべし-徳川家康会津に向けて出陣(上杉征伐・関ヶ原の...
徳川家康は機が熟すのを待っています。 やがて、伊達政宗・榊原康政・堀秀治から「上杉の嫌疑はますます濃厚だ」という訴えが届きます。とりわけ堀秀治は、越後の旧領で半年分の年貢を上杉...
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徳川家康、伊奈図書昭綱と河村長門守を会津に派遣、上杉景勝謀反を...
「上杉に謀反の動きがある」。何人もから告発を受け取っていた徳川家康は緩慢に動き始めます。この稀代の策術家は、あらゆる場合に備えた作戦を準備します。そして、たいていの場合、事態は彼...
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西笑承兌(せいしょうじょうたい・さいしょうじょうたい)から直江...
慶長5年(1600)4月1日。 大阪城の徳川家康は、上杉家に詰問状を発しました。 詰問状のあて先は、当主の上杉景勝ではありません。上杉家の全権を掌握する執政の直江兼続でした。 家...
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『直江状(なおえじょう)』の文章・内容-詰問に対する直江兼続か...
直江兼続は西笑承兌-いや、その背後にいる徳川家康に向けて返書を発しました。 世にいう、 -『直江状』 です。 「四月一日の書状、十三日に会津に着き、つぶさに拝見。おたずねに対...
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若松城・鶴ケ城・黒川城・わかまつじょう・つるがじょう・くろかわ...
☆☆☆ 会津若松市追手町 ☆☆☆ 慶長3年(1598)、豊臣秀吉は上杉景勝に会津への国替えを命じます。その会津での本城となったのが、当時黒川城と称していた蒲生氏郷(がもううじさと)...
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政権内の対立、武断派vs文治派(豊臣秀吉の死後)【天地人・直江兼...
あらかじめ、上杉征伐・関ヶ原の合戦に至る主要な出来事を、年表で整理しておきましょう。 1598年1月:上杉景勝の会津移封 1598年8月:豊臣秀吉没(62歳) 1598年9月:朝鮮からの諸将召還決...
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上杉景勝会津挙兵のシナリオ-直江兼続・石田三成密約説(上杉征伐...
『会津陣物語』によれば、直江兼続は上杉景勝の会津帰国の後、遅れて9月1日に大坂を立ち、3日に佐和山城に立ち寄ります。当然、秀吉没後の話であり、当時の石田三成は五奉行を外され、蟄居中...
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上杉景勝神指城(こうさしじょう・こうざしじょう)築城。若松城を...
慶長5年(1600)、上杉景勝は大規模な城郭の築造に着手しました。 会津若松城は名城として天下に聞こえているが、昨今の情勢から見るとあまりにも手狭。しかし、ここは山が近いために増築は...
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上杉景勝会津挙兵のシナリオ-直江兼続・石田三成共同謀議説II(...
『会津陣物語』によれば、直江兼続は上杉景勝の会津帰国の後、遅れて9月1日に大坂を立ち、3日に佐和山城に立ち寄ります。当然、秀吉没後の話であり、当時の石田三成は五奉行を外され、蟄居中...
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蒲生氏郷毒殺-直江兼続・石田三成共同謀議説(上杉征伐・関ヶ原の...
おそらく直江兼続も、上杉景勝の伏見から会津帰国に同行したのでしょう。が、途中で腹痛を患ったため、8月下旬に陸奥白河で逗留しています。そのとき、側近の春日元忠に書状を記しています。 ...
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上杉景勝伏見から会津へ帰国(上杉征伐・関ヶ原の合戦その3)【天...
『看羊録』では、前田利長、上杉景勝の相次ぐ帰国の背景には、密約があったとします。 「景勝は利長とともに越後奪回を企てた。それを越後の堀秀治が家康に報告する。根本の関東(徳川領国...
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藤田信吉出奔し「上杉景勝謀反」と訴え出る(上杉征伐・関ヶ原の合...
慶長4年(1599)、京都に滞在していた上杉景勝は一刻も早く会津へ戻って政務の処理をしたいと考えていました。 でも五大老の1人という立場では、自国の問題処理だけに関わってはいられませ...
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上杉景勝知行削減される・120万石→30万石(米沢移封その1)【天地...
慶長6年(1601)8月20日、上洛中の直江兼続は、会津三奉行に書状を書き、米沢引越しの5ヶ条を指示します。 出羽米沢30万石の所領は、陸奥伊達郡・信夫郡、出羽長井郡で、従来比較では4分の...
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北政所派vs淀殿派(豊臣秀吉の死後・前田利家の死後)【天地人・直...
秀吉に召し抱えられた時期に応じて、家臣を尾張衆(古参)、近江衆(新参)と分け、そこに「女の戦い」をアレンジする説です。現代風な解釈かつドラマ仕立てなので、よく小説などで取り上げら...
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石田三成が加藤清正・福島正則に襲われ、徳川家康の屋敷に逃げ込む...
前田利家の死は、政情不安を一気に加速させます。その晩のこと。加藤清正、福島正則ら武断派の将が、石田三成襲撃を企てます。それを知った三成は、親しい佐竹義宣や宇喜田秀家の援助を受け、...
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派閥抗争の激化、前田利家派vs徳川家康派(豊臣秀吉の死後・前田利...
「前田利家の死」がターニングポイントだったのは間違いありません。 慶長4年(1599)1月、徳川家康が御法度の「大名同士の縁組は、御意(秀吉の許可)が必要」に違反して、伊達政宗、福島...
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徳川家康暗殺未遂事件、黒幕は前田利長-前田征伐(豊臣秀吉の死後...
石田三成襲撃事件の後、8月に前田利長は加賀へ、上杉景勝は会津へと領国経営のために帰国します。引き続き徳川家康は、伏見城で政務を担当しています。 9月に入り、大坂城に赴いた家康に、...
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大谷吉継・大谷刑部吉継(おおたによしつぐ・おおたにぎょうぶよし...
永禄2年(1559)~慶長5年(1600)9月15日。 紀之介、桂松(慶松)、通称平馬、豊臣秀吉の一字を賜わり吉継と改めます。 天正5年(1577)、秀吉の御馬廻衆となります。 天正13年(...
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黒田長政(くろだながまさ・有吉崇匡・佐藤洸)【直江兼続・天地人...
永禄11年(1568)~元和9年(1623)。 黒田官兵衛孝高(くろだかんべえよしたか)の子。 幼少より人質として豊臣(羽柴)秀吉のもとにありました。 天正10年(1582)中国経略に...
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島左近・島清興(しまさこん・しまきよおき・若林豪)【直江兼続・...
生年月日不詳~慶長5年(1600)。 名は清興。勝猛、友之とする書もあります。 筒井氏に属していたが、のち、石田三成の股肱の臣となります。 「冶部少に過ぎたるものが二つあり、...
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石田三成と徳川家康(豊臣秀吉の死後)【天地人・直江兼続関係】
豊臣秀吉の死という超極秘事項を、最初に徳川家康に伝えたのは、意外かもしれませんが、石田三成です。 その後、三成は前田利家に「家康に野心あり」と讒言して接近したというから、「親利...
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堀秀治・堀久太郎(ほりひではる・ほりきゅうたろう・かなやす慶行...
天正4年(1576)~慶長11年(1606)5月26日。 久太郎、近江国安土(滋賀県安土町)で誕生。 堀直政の嫡男。 豊臣秀吉の命で、越前北庄城(福井市)主から春日山城主となります。...
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豊臣政権の有力大名一覧・石高ランキング【天地人・直江兼続関係】
大名 呼称 石高(万石) 1 徳川家康 江戸内大臣 256 2 毛利輝元 安芸中納言 121 ...
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諸将の配置その2-直江兼続の米沢支配30万石(上杉景勝の会津移封...
「会津120万石の中から、景勝は米沢30万石を兼続に分け与えた」。 主従の信頼関係の表れとして、直江兼続では最も有名な話です。ただし、出典となると意外に曖昧で、『藩翰譜』に痕跡が見...
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諸将の配置その1-軍事対応(上杉景勝の会津移封)【天地人・直江...
会津は猪苗代湖を擁する盆地であり、四方からは10数通りの入国ルートがあります。言い換えれば、国境警備が非常に難しい土地です。 メインは東山道からの侵入路。以下、重要な口に絞って掲...
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上杉家会津転封後の城将配置状況・知行高一覧(上杉景勝の会津移封...
知行高の筆頭は米沢6万石の直江兼続で、2万石台の大国実頼(兼続の実弟)、甘糟景継、須田長義(満親の子)がそれに続きます。 1.東山道口 白河城 白河市 芋...
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上杉景勝と堀秀治のトラブル(上杉征伐・関ヶ原の合戦その1)【天...
慶長3年(1598)3月。 大幅な加増を得た上杉景勝家は越後から会津若松城へ移り、そして家老の直江兼続は米沢城に入りました。彼は富士山の裾野から神達明神(かんだちみょうじん)を招き、...
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上杉征伐・関ヶ原の合戦の始まりから結末まで。年表【天地人・直江...
1.上杉景勝と堀秀治のトラブル:慶長3年(1598)3月 2.藤田信吉「上杉景勝謀反」と訴え出る:慶長4年(1599)3月 3.上杉景勝伏見から会津へ帰国:慶長4年(1599)8月 4.蒲生氏郷毒殺-...
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上杉景勝の会津入国【天地人・直江兼続関係】
慶長3年(1598)3月上旬、京都伏見を出発した上杉景勝は、越後経由で、下旬には会津黒川城に入ります。ただし、上杉謙信の遺骸が入った甕(かめ)を春日山城に置いたままで。 会津黒川城は...
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豊臣秀吉の死去【天地人・直江兼続関係】
8月5日、病床の秀吉は、五大老「家康、筑前(利家)、輝元、景勝、秀家」に宛てた自筆遺言状を認めます。 「返す返す、秀頼の事、頼み申し候。五人の衆、頼み申し上げ候。一切五人の者に申...
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あすかん総務委員会→第二フォーラム
総務委員会が開催されました。今回は、講師例会として 大津町文化財保護委員会 岩下一吉氏の講演も開催されました。◇演題『室町の形成と上井手』 (1)苦竹村はどこか? (2)参勤道を...
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会津移封前の直江兼続の準備【天地人・直江兼続関係】
慶長3年(1598)2月初旬、会津移封に伴い、直江兼続は与板衆に「信州川中島海津、長沼両城、(石田)治部少輔殿奉行衆へ相渡すべき覚(おぼえ)」として細かい指示を出しています。 米や繊...
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五色塚古墳(神戸・垂水区)
12日水曜日「高野山」の後は、神戸の「五色塚古墳(ごしきづかこふん)」へ。
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「奥羽両国探題」上杉景勝【天地人・直江兼続関係】
上杉景勝の会津移封(国替え)を整理しましょう。前提には、「細長い日本を一元管理するのは困難」という時代の常識があります。 西国の覇者となった秀吉は、北条征伐を前にして、東国取次...
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増田長盛(ましたながもり・沼田隆兵)・五奉行の1人【直江兼続・...
天文14年(1545)~慶長20年(1615)5月27日。 尾張国中島郡増田村の生まれ、あるいは近江国浅井郡増田郷の出身とも伝えられます。 羽柴秀吉に仕え、小牧・長久手合戦での戦功が認...
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前田玄以(まえだげんい・梁瀬龍洋)・五奉行の1人【直江兼続・天...
天文8年(1539)~慶長7年(1602)。 前田基光の子として美濃で生まれます。 はじめ尾張小松原寺の僧侶でしたが、後に比叡山延暦寺に入りました。 織田信長に招聘されてその家臣と...
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長束正家(なつかまさいえ・菊地真之)・五奉行の1人【直江兼続・...
生年月日不詳~慶長5年(1600)10月3日。 もと丹羽長秀の家臣でしたが、長秀が亡くなったのち、その才能を見込んだ秀吉が召し抱えて重用しました。 九州攻め・小田原攻め、また2度の...
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なぜ上杉景勝が会津に移封させられたのか?その理由【天地人・直江...
上杉景勝の会津移封について、俗説が数多く存在します。ということは、確証がないことの裏返し。中には、後のに関連するものも含まれています。 1、景勝信頼説:家康警戒説。秀吉が協力者...
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豊臣秀吉から上杉景勝への会津移封・国替え命令、新領・会津120万...
慶長3年(1598)1月、豊臣秀吉は上杉景勝に会津移封を命じます。秀吉逝去の7ヶ月前、京都伏見でのことです。伏見城の修復工事のため、直江兼続も在京していた可能性が高いです。 豊臣秀吉...
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関白豊臣秀次謀反・自害【天地人・直江兼続関係】
太閤秀吉が、関白豊臣秀次を自害させたのは、文禄4年(1595)7月のこと。秀吉が生まれたばかりの実子・秀頼の将来を案じ、嗣子に迎えた甥・豊臣秀次に謀反の嫌疑をかけたのです。 いった...
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朝鮮出兵・文禄の役後の直江兼続の領国経営・金山開発や検地等【天...
このころ、秀吉政権(公儀)は膨大な直轄領を有しているが、さらに全国の金銀山を独占しようとしました。直轄領からは年貢徴収&課税収入、金銀山からは運上金と考えればわかりやすいでしょう...
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直江兼続、出羽羽黒山に祈願に行く【天地人・直江兼続関係】
文禄3年(1594)10月、上洛中の上杉景勝はに昇進し、以降は「越後中納言」と呼ばれることになります。 そのころ、直江兼続も上杉景勝に従って京都に滞在していたようですが、7月には出羽羽...
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朝鮮出兵その4_直江兼続は合戦よりも書籍【天地人・直江兼続関係】
朝鮮での有名な話があります。文人・直江兼続の面目躍如といっていいでしょう。 名護屋在陣中の直江兼続は、漢籍300巻を筆写させたといいます。また朝鮮で戦った諸将が、財宝を戦利品とし...
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片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな・曽根悠多)【直江...
弘治3年(1557)~元和元年(1615)。 仙台藩伊達氏の重臣。 小十郎は世襲名。 豊臣秀吉の奥州仕置に際し伊達政宗の小田原参陣を推進、近世大名としての伊達氏の再生を決定づけ...
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豊臣秀次・羽柴秀次(とよとみひでつぐ・はしばひでつぐ・眞島秀和...
永禄11年(1568)~文禄4年(1595)。 豊臣秀吉の甥にあたります。 永禄11年(1568)、秀吉の近臣三好吉房(みよしよしふさ)の長男として生まれます。 母は秀吉の姉・とも(瑞竜院...