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- 【戦艦】『長門級戦艦』世界七大戦艦に数えられた最強戦艦
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(以下画像はwikipediaより転載)
要約
戦艦長門級は八八艦隊の第一号として建造された艦で日本で初めて30,000トンを超えた戦艦である。主砲は当時最大の41cm砲で連装4基を装備した。ジュットランド海戦の戦訓を取り入れ重装甲化され、最高速度26.5ノットは当時の戦艦の水準を超えるものであった。姉妹艦陸奥はワシントン海軍軍縮条約で廃艦が求められたが、陸奥を残す代わりに英米に同程度の戦艦2隻の建造を認めることで保有が認められた。
太平洋戦争中に陸奥が謎の爆沈をしており、長門はマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に参加した後、横須賀に係留された状態で終戦を迎える。戦後ビキニ環礁での原爆実験の標的艦として沈没した。
長門級戦艦
性能(新造時)
基準排水量 32,730トン
全長 215.8m
全幅 28.96m
機関出力 80,000馬力
最大速力 26.5ノット
航続距離 5,500海里 / 16ノット
乗員 1,333名
武装 45口径41cm砲連装4基
50口径14cm単装砲20基
40口径76mm高角砲単装4基
53.3mm水中魚雷発射管4基
53.3mm水上魚雷発射管4基
装甲 舷側最大305mm、甲板最大146mm
搭載機 3機(改装後)
竣工(1番艦 長門) 1920年11月25日
竣工(2番艦 陸奥) 1921年10月24日
同型艦 2隻
開発前史
大正時代の日本海軍は戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の八八艦隊を計画、その一番目として長門型戦艦の建造を開始した。当初は伊勢級と同じ35.6cm砲を搭載予定であったが米海軍が40.6cm砲搭載戦艦を準備中との情報を得て急遽41cm砲搭載艦として設計することとなった。
開発
戦艦長門は1917年8月28日に起工、1919年11月9日進水、1920年11月25日に竣工。2番艦陸奥は1918年6月1日起工、1920年5月31日進水、1921年10月24日に竣工した。長門は日本海軍の念願であった八八艦隊計画案によって着工された戦艦第一号であった。排水量は32,730トン、全長215.8m、全幅28.96mという巨艦で日本の戦艦で初めて30,000トンを超えた戦艦でもあった。
主砲はそれまでの35.6cm砲と異なり日本が独自に設計した41cm砲連装4基で前後に2基ずつ設置された。この砲は最大仰角30°で30,000mの射程距離を誇る強力なもので副砲は伊勢級と同様の50口径14cm単装砲20基で他には76mm高角砲単装4基、魚雷発射管も装備していた。
装甲は舷側305mmと扶桑級、伊勢級と同じであるが、ジュットランド海戦での戦訓を取り入れて甲板装甲は甲板146mmと強化されており「ポスト・ジュットランド型」戦艦と呼ばれるこの海戦での戦訓を取り入れた最初の艦となった。
主機関はギヤード・タービンが採用され、80,000馬力で航続力は16ノットで5,500海里、最高速力26.5ノットという高速を発揮することが出来た。但し23ノットとして公表されている。
当時の欧米の戦艦の主砲は軒並み35.6cm砲かまたはそれを下回る砲であった。速力も26.5ノットの長門級に対して他国の戦艦は25ノット以下であり、まさしく長門級戦艦は当時世界最強の戦艦であった。
完成後も長門級は若干の改修が施されており、1923年から1924年にかけて煙突からの排煙が艦橋に侵入するのを防ぐために煙突の上部を後方に湾曲させる改修を行っており、1933年には後部左舷にカタパルトが設置されている。
戦艦陸奥の保有問題
長門から1年後の1921年10月に竣工した戦艦陸奥は同年行われたワシントン会議でその保有が問題となった。竣工したのが会議の直前であったものの列強は陸奥に未完成の部分が多いとして完成艦であると認めず廃艦するように主張した。
これに対して日本は陸奥を保有するために米海軍の41cm砲搭載艦のコロラド、ウェストバージニア、英海軍の同砲搭載艦ネルソン級2隻の建造を認めることになった。これによって妥協が成立、この会議以前に完成していた41cm砲搭載の戦艦長門と米戦艦メリーランドを合わせて7隻のみが世界で41cm砲を装備した戦艦となった。以降、この7隻は七大戦艦と呼ばれるようになった。
つまり陸奥が廃艦となっていれば世界の41cm砲搭載戦艦は長門とメリーランドのみで二大戦艦であった訳だが陸奥を保有する代償として4隻の戦艦の建造を日本は認めた。あくまでも損な取引であったことは言うまでもない。
近代化改装
他の戦艦と同様に長門級戦艦も近代化改装を行っている。1934年4月11日から1936年1月31日まで長門が改装を行った。1934年9月6日には陸奥の改装が開始、1936年9月30日で改装を完了している。
この改装では他の戦艦同様に艦橋構造物が大型化、煙突は1本に改められている他、主砲の仰角は43°、副砲の仰角も引き上げられ長距離砲戦能力が高まっているが、最前部の副砲2基と時代遅れの魚雷発射管は撤去されている。水上機搭載能力も強化されており、3番砲塔と後檣の間にカタパルトを増設、水上機3機を搭載することが可能となった。
防御面では水平装甲の強化も行われているが主機関は強化されなかったため最高速度は25ノットに低下している。
戦歴
戦艦長門は戦艦大和に旗艦が移るまで12年間連合艦隊の旗艦を務め日本海軍のシンボル的な存在であった。太平洋戦争開戦時には連合艦隊旗艦として瀬戸内海柱島泊地に停泊して全艦隊の指揮を執った。最初の出撃はミッドウェー海戦であったがこれは機動部隊のはるか後方にあり直接の戦闘は行っていない。
戦艦武蔵が竣工すると長門と陸奥は第二戦隊に編成替えとなりトラック島に進出したが1943年1月には内地に帰還して以降は訓練に励んだ。ところが1943年6月8日、柱島に停泊していた陸奥の3番砲塔付近から突然白煙を吹き上げ火薬庫が大爆発して陸奥はそのまま沈没した。乗組員1,474名の内、救助されたのはわずか353名でその原因は不明であった。
長門は1944年6月にマリアナ沖海戦に参加、10月にはレイテ沖海戦に参加する。サマール沖海戦で戦艦大和、武蔵とともに初めて敵艦に対して主砲を発射している。その後長門は横須賀に帰港、1945年7月18日の米艦載機の爆撃により被弾、艦橋にも命中し艦長、副長、砲術長が戦死している。長門は中破した状態で終戦を迎えた。
1946年7月1日、ビキニ環礁で行われた原爆実験の標的艦となり沈没した。
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- 投稿日時:2024/05/05 19:00
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- 【戦艦】『伊勢級戦艦』航空戦艦となった改扶桑級戦艦
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(以下画像はwikipediaより転載)
要約
戦艦伊勢級は扶桑型の3番艦、4番艦として計画されたが扶桑級の欠陥に改良を加えたため伊勢級として竣工した。扶桑級と同じく主砲は35.6cm砲で中心線上に連装6基が配置された。3番砲塔、4番砲塔の位置が扶桑級とは異なる。太平洋戦争中盤に航空戦艦に改装されエンガノ岬沖海戦で活躍した。戦争末期には呉軍港において防空砲台として運用されたが空襲で大破着底して終戦を迎えた。
伊勢級戦艦
性能(新造時)
基準排水量 29,900トン
全長 208.10m
全幅 28.65m
機関出力 45,000馬力
最大速力 23.0ノット
航続距離 9,680海里 / 14ノット
乗員 1,360名
武装 45口径35.6cm砲連装6基
50口径14cm単装砲20基
40口径76mm高角砲4基
53.3cm水中魚雷発射管6基
装甲 舷側最大305mm、甲板最大85mm
搭載機 -
竣工(1番艦 伊勢) 1917年12月15日
竣工(2番艦 日向) 1918年4月30日
同型艦 2隻
性能(最終時)
基準排水量 35,200トン
全長 219.62m
全幅 33.83m
飛行甲板 70m×29m
エレベーター 1基
機関出力 80,825馬力
最大速力 25.31ノット
航続距離 9,500海里 / 16ノット
乗員 1,434名
武装 45口径35.6cm砲連装4基
40口径12.7cm高角砲連装8基
25mm3連装機銃31基
25mm単装機銃11挺
12cm28連装噴進砲6基
装甲 舷側最大305mm、甲板最大85mm
搭載機 22機
同型艦 2隻
開発前史
伊勢級戦艦は超ド級巡洋戦艦である金剛級戦艦と対をなす超ド級戦艦扶桑級の3番艦、4番艦として建造される予定であった。しかし予算の成立が遅延したことに加え、第一次世界大戦のジュットランド海戦での戦訓が影響している。
ジュットランド海戦とは1916年5月31日に起こった英海軍とドイツ海軍の主力艦合計59隻が参加した大海戦で、それまでの戦艦の想定が6,000m程度の距離の撃ちあいであったのに対して13,000mを超える遠距離からの砲戦であった。
この海戦によって英国の巡洋戦艦3隻が撃沈され、巡洋戦艦の装甲の弱さが問題となった。日本の金剛級戦艦も同様の問題を抱えており、戦艦に関しても速度の遅さが致命的であることが判明した。このため伊勢級戦艦は扶桑級戦艦に改良を加えて完成させることとなった。
開発
戦艦伊勢は日本で初めて戦艦を建造した民間造船所である神戸川崎造船所で起工、1915年5月10日に起工、1916年11月12日進水、1917年12月15日に竣工した。姉妹艦日向は1915年5月6日に起工、1917年1月27日進水、1918年4月30日に竣工した。排水量は29,900トンで全長208.16m、全幅28.65mで扶桑級よりも若干大きいがほぼ同クラスである。
主砲は金剛級、扶桑級と同じ45口径35.6cm砲連装6基であるが、3番砲塔、4番砲塔の位置は扶桑級が第二煙突を挟んで設置されているのに対して伊勢級は第二煙突の後方に2基配置された。これは扶桑で問題となった主砲射撃時の爆風が艦橋を襲うことを防ぐためである。
副砲は50口径14cm単装砲20基で扶桑級の15.2cm単装砲16基よりも小口径化しているが数は増えた。小口径化は小柄な日本人にとって操作性が良く、砲数が増えたため火力はさほど劣っていない。高角砲も扶桑級と同様に搭載されており、76mm高角単装砲が4基設置されている他、魚雷発射管も装備された。装甲は舷側305mm、甲板85mm、砲塔305mm、司令塔305mmである。
機関は伊勢がブラウン・カーチス式タービン、日向がパーソンズ式タービンで出力は45,000馬力で扶桑級よりも5,000馬力増加している。このため最高速力は扶桑級の22.5ノットに対して23.0ノットを発揮することができた。
伊勢級も他の戦艦と同様に竣工後も随時改装を行っている。1921年には主砲の仰角を25°から30°に増大して最大射程30,000kmの長距離砲戦能力を獲得、1928年には前檣を櫓檣式に変更された。さらに水上偵察機の搭載、1932年には対空兵装の強化も行われている。
第一次改装
日向は1934年11月23日から1936年9月7日まで、伊勢の改装は1935年8月1日から1937年3月23日まで行われている。第一次改装では主砲の仰角を30°から43°に増大した。これにより射程距離は35,450mに延長、副砲も仰角20°から30°へと引き上げられた。主機関も艦本式タービンに更新され2本あった煙突は1本になり80,000馬力、最高速度25ノットが発揮できるようになった。水平防御を中心とした装甲防御の強化、、艦尾を8m延長、対空兵装の増強、カタパルトの新設等が行われた。これらの改装により排水量は36,000トンに増加している。
航空戦艦に改装
このミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は出撃機会の少ない低速戦艦を空母に改造することを計画、扶桑級、伊勢級がその候補にあがった。この時、日向が砲塔の爆発事故を起こした直後で修理を行う必要があったことから伊勢級の航空母艦への改装が決定したが、完全な空母に改装するには時間がかかり過ぎるために後甲板の5番、6番砲塔を撤去、水上機射出甲板を備えた航空戦艦に改装されることとなった。
工事は伊勢が1942年12月23日から1943年9月5日まで、日向は1943年5月2日から1943年11月30日まで行われた。完成した航空戦艦伊勢級は飛行甲板全長70m、全幅29mで両舷にカタパルトを各1基設置して甲板下は格納庫とした。搭載機数は21機であったが、着艦装置が無いため通常の艦上機の搭載はできずにカタパルト射出用に改造された艦上爆撃機彗星が搭載される予定であった。この彗星は射出後は近くの陸上基地に着陸するか艦の周辺に着水してパイロットのみ回収する計画であった。のちに艦載機の半数を水上偵察機瑞雲に変更されている。
航空戦艦化に伴い対空兵装も強化されている。当初は12.7cm高角砲連装4基のみであったのに対して同砲をさらに4基増設、8基16門となった他、25mm機銃も連装10基を3連装に変更した上でさらに9基を増設した。マリアナ沖海戦ののちにはさらに機銃が増設されている。
戦歴
日向は砲塔関係の事故に多く見舞われた艦であった。最初は竣工直後の1919年10月24日であり、房総沖での演習中の第3砲塔爆発事故を起こしている。次に1924年9月17日4番砲塔で火災が発生、さらに1942年5月5日には伊予灘での射撃訓練中の5番砲塔の爆発事故が起こった。この事故の結果、日向は5番砲塔を撤去している。
太平洋戦争開戦時には伊勢、日向ともに第一艦隊に所属、連合艦隊の主力部隊として柱島泊地にあった。初陣はミッドウェー海戦であったが実際に戦闘に参加することはなかった。このミッドウェー海戦で主力空母4隻を失った日本海軍は空母不足を補うために伊勢級を半空母「航空戦艦」に改装することとした。
伊勢は1943年8月、日向は同年11月に航空戦艦に改装が完了したものの搭載する航空機の生産が間に合わず計画の航空機を搭載することができなかった。1944年10月25日、伊勢級航空戦艦は第4航空戦隊を編成、エンガノ岬沖海戦に参加するが、これは戦艦大和以下の第一遊撃部隊のレイテ湾突入を援護するための囮作戦であった。
この囮部隊に米機動部隊の航空機が殺到、他の艦艇が次々と撃沈される中、戦隊司令松田千秋少将が理論化した独自の回避運動を実戦、のべ530機の攻撃の中で大きな被害を受けずに生還した。
その後はフィリピン方面への輸送任務に従事したが、1945年春には呉軍港外に停泊、防空砲台となった。7月24日、28日の米機動部隊の呉軍港空襲で命中弾16発を受けて大破着底、そのまま終戦を迎えた。戦後引き揚げられ解体されている。
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ハセガワ 1/700 ウォーターラインシリーズ 日本海軍 航空戦艦 伊勢 プラモデル 119ハセガワ(Hasegawa)
扶桑型戦艦 伊勢型戦艦 完全ガイド本吉 隆イカロス出版2022-11-29
KB SHIPS 1/1100 戦艦 日向 1941年 完成品国際貿易(Kokusaiboeki)2017-12-27
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- 投稿日時:2024/05/04 07:00
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